1.印籠

百花繚乱、江戸細密工芸の極み、印籠こそは江戸時代の日本を代表する美術品である。
ヨーロッパ工芸の代表が豪華精緻な王冠であり、中国では精巧神妙な鼻煙壺などが挙げられるが、日本の伝統美術品「印籠」は、その技・美しさと共に高い精神性がある至高の結晶である。
蒔絵・金梨子地・截金・螺鈿の技法を駆使し、象牙・網代・金属(主として四分一赤銅・金・銀)を用いて、多彩絢爛の世界を展開する。
もともと印籠は薬籠としての実用性から、江戸人の高い趣味に支えられて、高度の芸術性を持つようになり、通人のスティタスシンボルとして脚光を浴びるようになった。
水戸黄門漫遊記で見る葵紋の印籠は、一種の身分証明みたいなものである。
この江戸の粋、軽妙洒脱の印籠は、明治開化期に続々と海外に流失して、今では名品の殆どが欧米の博物館や美術館に収納されており、または著名コレクターに蒐集され、国内に残された逸品はまことに寥々たるありさまである。
本作(右→実物大)は「金蒔絵(表)鶴仙人、(裏)唐子図印籠」で、光玉斉作であり、仙人と唐子の面は玉を使ってある。根付は三河万歳の容彫り(象牙)で、法実の銘がある。明鶏斉法実は将軍家お抱えの根付師で、東都第一の名工といわれた山田法実で、懐玉斉正次や森田藻己らと並び称せられた著名工である。明鶏斉には古来から偽物が多いため、外国での評価が高くないということである。
緒締は陶製善五郎(永楽)の染付山水図で洒落れたものだ。これだけの逸品ともなれば、コレクターの垂涎の的となるであろう。
海外では尽きせぬ魅力の小宇宙としての根付に人気があり、今や本体の印籠と離れて根付が独り歩きをしており、多くの愛好家が国際的な同好会を組織している。【了】

2.馬上筒

 鉄砲記によれば、1543年、我が朝の天文12年葵卯8月25日、種子ヶ島西浦村小浦に、ポルトガル人アントニオ・ダモアによって初めて火縄銃(種子ヶ島とも云う)がもたらされたとある。
足利将軍義晴の頃である。
その後、江州国友鍛冶や堺・紀州根香寺などで研究開発されて、本格的な火縄銃の時代が訪れ、織田信長の有名な長篠の戦いで、天下無敵と称された武田騎馬軍団を粉砕したのがこの火器の威力であり、天下制覇の遠因となった。
そのためこの小火器は急速な発達を遂げ、遂には長大な城打銃とか、軽便な馬上筒をも開発された。
馬上筒は名が示す通り馬上で使用された物で、小型で精巧な出来具合で、主として高級武士によって使用された。
長さも通常の火縄銃の半分ぐらいで、目方も軽く機動性に富み、後には銃身などに精巧な象嵌彫刻を施したものが出てくるようになった。
家紋や唐草模様、信仰などを金銀を使って象嵌模様にし、高級銃ともなるとその華麗さに、思わずこれが殺人兵器かと目を疑うほどの物もある。
日本人の特性として、殺伐たる兵器、日本刀や火縄銃さえも美と粋という生命を吹き込んで、芸術品・美術品へと昇華させているのは驚くべきことである。馬上筒にしろ火縄銃にしろ、本質的には戦場での消耗品であり、伝家の宝物として代々に伝えることは至難のことであった。まして鍛鉄とは申せ、湿気の多い我が国では、腐蝕が進み伝世品は極めて少ない。
もっとも、江戸中期以降の化政期に造られた物は実戦の機会も少なく、健全な姿で残っている物も多いのだが、戦国時代の物となると貴重な遺産と云えよう。本来的に火縄銃とは実用一点張りの消耗品であり、一挺として手造りでないものはないが、主として足軽の兵器であったが、後には砲術研究家などが現れ、武人のたしなみとして、武将間でも愛用されるに及び、入念精巧な高品質の馬上筒が作られるようになった。本作(長さ約50p)は銃身裏に藍屋勝左衛門作在銘、驚くことに花押入りである。花押入りの銃は今までに経眼したことがなく、珍貴なものである。【了】

(趣味の日本刀談義)
1.歴史とともに

 武士の魂として神格化され、家宝の筆頭として崇められてきた世界に誇る比類なき工芸品、日本刀は二度と造り得ない伝統ある文化財として古美術愛好家たちにとって今も強く渇望され、信仰的な収集の対象とされている。
 鉄と火と水の究極の芸術品、百錬鋼(はがね)と化した日本刀は、その無類の切れ味と、折れず、曲がらずという相反した特性を持ち、神秘的なまでに不思議な生命力さえ持つ鉄の芸術品である。
それ故に日本刀は、我々日本人の心の中に今もなお生きているのである。
 刀剣は千年の歴史の流れの中において、幾多の試練と受難の時があった。まさに日本刀こそ日本の歴史とともに歩んだ証言者であり、またそれを裏付けるものである。
 銅剣から鉄剣へ、直刀から湾刀へ、太刀から打刀へと、時代の要求に応じて敏感な適応がなされ、兵法や剣術の推移に従って、その形態や機能も微妙に変化してきた。
 鑑刀に心得のある識者が刀を観て、その製作時代を的確に当てるのも、実に刀が歴史とともに歩み、生まれ出てきたからこそである。二度にわたる文永・弘安の役(元寇)の後になって全く新しい流派、相州伝が古今独特の名匠、正宗(五郎入道)によって完成されたが、未曾有の国難に対応した後の武器刀剣の改良の結果と刀剣観の進歩だったとも考えられる。以後、日本刀の持つ美術的な要素を重視する日本刀観によって新刀特伝に受けつがれ、現代刀にも脈々と生きている。





(趣味の日本刀談義)
2.むかし日本刀、いま自動車

 世界に冠たる黒字大国日本の対米輸出の花形は、現在、なんと言っても自動車や先端電気製品であるが、かつて応仁の乱から戦国時代にかけての数十年がほどの間、対明貿易の主役は、実は日本刀であった。
 目玉商品として大量に輸出された当時の日本刀は、二十万振りとも、一説には数十万振りとも言われており、詳細な実数はつかみ得べくもないが、史上、これほど対外貿易に活躍したものは、刀剣以外にあまり例を見ない。
 明王朝のこの膨大な買い占めは、一つには倭寇(わこう)対策とも考えられるが、それはさておき日本の刀剣史にとっては、まことにありがたくない質の低下、大量生産方式による粗悪品濫造、俗に数打物とか、束刀(たばがたな)と呼ばれる低迷時代を招いたのも事実である。「備前千軒、関にも千軒」という言葉が、当時の日本の軍需工業地帯を簡明直截に表現している。
 刀剣社会では室町後期の刀剣を俗に、「末物」と称して、鎌倉吉野期のそれに比して同じ古刀でありながら、その質や価値に雲泥の差を認めている。しかしながら、この途方もない数打物とは別に、「注文打」とか「為打」と呼ばれる入念作があり、これらは同時代の代表的な傑作として珍重されている。








 (趣味の日本刀談義)
3.刀狩り

 このように歴史とともに歩んできた刀剣にとって、その受難の最たるものは、数多い戦乱や火災ばかりでなく、前後数度にわたる「刀狩り」であろう。
 刀狩りと言えば、天下統一の覇業を成し遂げた太閤秀吉が、天正十六年七月八日に発した刀狩令は有名で、下克上の風潮が再燃するのを恐れ、またさらには、一揆防止のための兵農分離を目的に、巧妙なカムフラージュによる善政治乱の看板を掲げて、無知な農民や半農半武の目をくらまして行った武器所持禁止令である。刀、槍など物騒なものは百姓町人には要らざるものであり、即刻に供出せよというもので、全国ではおびただしい数にのぼったという。
 戦国時代の農民は、後世の身分階級の厳重な幕藩体制下の羊のように従順な農民とは異なって、刀や槍を戦場から掠(かす)め取ったり、また自衛上の武装をするなど、農民即武士でもあった。想像以上に力強い潜在戦力であったことは、明智光秀ほどの武将でさえも、たやすく土民に殺された例からも想像に難くないが、秀吉はこれらの危険な武器を取り上げ、ひたすら営農にいそしむように狼軍を牙のない飼い犬にしてしまったわけで、後の士農工商の身分制度の基盤、布石ともなった。
 次に特筆すべきことは明治維新の政変である。明治新政府は維新達成後、軍隊以外の帯刀を禁じてきたが、同九年三月二十八日、主に士族を対象として帯刀を禁ずると布告した。これは、当時の陸軍卿山県有朋の建言上申によるものだが、この廃刀令に激憤した熊本の士族、太田黒伴雄らによる神風連の乱が起こり、これに呼応する形で、萩の乱、秋月の乱と、旧士族の新政府に対する一連の反乱が起きた。この帯刀禁止令は、太閤が農民を対象を対象としたのに対し、士族を対象に、いわば全面的な廃刀令であったことが特色である。
変わったところでは、僧職の武器所持を禁じた執権北条泰時(安貞二年)がある。僧兵の目に余る横暴、強訴、武士団との闘争等々に対して、僧侶党衆の宗教軍団からの兵仗の取り上げを画したものである。この場合は、太刀のほかに、槍や薙刀が彼らの主な武器であった。 このように日本刀は、純然たる兵器武具として深く政治や歴史とかかわりあってきた。 一九四五年、日本の敗戦による日本刀の打撃は決定的なものであった。 米軍が最も怖れたのは、零戦による神風特攻隊の体当たり戦法と、大和魂の権化である日本刀による斬り込みであった。よほどに怖かったとみえて、日本進駐と同時に,GHQは日本全国、津々浦々に徹底したローラー方式で厳重な日本刀没収を執拗に繰り返した。

 
 (趣味の日本刀談義)
4.ピンからキリまで

 前後数回にわたる刀狩りに遭い、その間には幾多の火災や戦役、政変に遭遇しながらも、今に生き残った奇跡の日本刀が数多くある。まさに焼け跡の灰から蘇るという不死鳥の如く、この、日本民族のシンボルといわれる鉄の芸術品は、命をかけて守り通されてきた。 現在各府県に登録されている刀剣類は、全国で推定百万件を優に越すであろう。当時の絶対者であった進駐軍の至上命令、古今未曾有の徹底した刀狩りにもめげずに、しぶとく生き残った日本刀が百万余本!一口に、百万とか百五十万振りとかいわれるこれらの刀剣類には、いわゆる刀、太刀、剣、短刀、脇差、槍、ほこ、古式銃など多くの種類が含まれている。 現在の日本人の生活意識では、九十%が中流意識をもっているという太平、結構な世の中であるが、古美術の世界はまた別で、実にさまざまな格付けがされている。刀工の勤務評定を「位列」といって、例えば、山城来国光は古刀最上作、出羽の藤原国路は新刀上々作、備前長船祐永は新々刀上作などと、そのランク付けが江戸時代から判然としているのである。 ある刀剣団体の統計によれば、全体の半数近い刀が、美術工芸品的価値の低いものか、または 偽物、あるいは贋(がん)物であるという。残りの半数が辛うじて美術工芸品として中流であり、名刀となると数百振りに一本ぐらいの割合だということである。名刀であるか、迷刀であるかを決める基準は、厳格には多項目にわたる観点があるのだが、通常はそこそこの粗見で刀の鑑定をやってしまいがちである。






(趣味の日本刀談義)
5.新しい刀剣学

 つい10年ほど前、あれほどのブームをよんだ刀剣熱も不況風に冷やされて、近頃はすっかり鳴りをひそめたようだが、千年の刀剣史上、今ほど刀剣の研究が進んだ時代はかつてない。戦後、旧大名家から放出された数々の名刀のおかげで、新しい比較鑑定学が確立されようとしている。今までは雲の上だった幻の古名刀を、現実に手にとって鑑賞し、比較検討し、自由に批評できるし、豊富な文献や研究資料、参考図書には事欠かないありがたい時世である。 ブームに乗って活躍した刀商たちが持つそれぞれの刀剣観、長い伝統に培われた工芸職人が抱く刀剣論、そして趣味の刀剣人が口にする刀剣哲学と、それぞれのニュアンスに些少の違いはあっても、刀剣を通じて視野を広め、心の余裕を養い、人生を豊かにすることが出来れば、これこそ本来の刀剣鑑賞と正しい刀剣学であると信ずる。













(趣味の日本刀談義)
6.文化財としての刀剣

 百錬鋼と化した鉄と火と水の究極の文化である日本刀は、その斬れるという極限の機能を追求した結果、必然的に生じたすばらしい美をも併せ持つ世界に冠たる芸術品である。
 刀匠が一口一口に神妙な願いを込め、精進潔斎、沐浴の後に注連(しめ)縄をめぐらして鎮魂帰神の清浄な白装束で一槌三礼の敬虔な祈りを籠めて鍛え上げた日本刀には、現代科学を超越した生命の息吹を感ずる。
 日本刀には今日でもってしても、どうにも解明されない未知の驚異と魔性が確かに存在する。加えてそれぞれの刀剣が持つ妖しいまでに霊妙華麗な、時に不吉な刀歴の神秘さを思うとき、胸にどよめきを感ずるのは私だけではあるまい。
 明鏡三尺の秋水は、ただ単に武士の腰間にあっただけでなく、それが護ってきたであろう一個の生命や、ひいては一族郎党の命運、大きくは一國一城の興亡盛衰をすら賭けたことを思えば、一口の刀が歴史の流れを変え、武者(つわもの)どもが夢の跡、を偲ばせるのもむべなりと言えよう。
 ことほどさように武士の魂として尊崇されてきた日本刀ではあるが、これが室町から江戸時代に至り、儀礼的な贈答、即ち慶事吉例の祝いや和睦の代償、戦功のねぎらい、冠婚の引出物と、ひろく社交的、政略的な要素を帯びるにおよんで、折紙や目録に金子を添えて贈る便法から刀の格付けや代付けが行われるようになった。本阿弥家が、時の権力者から特権として許された刀剣の極め折紙などが、刀剣の位列を決めたとも言えよう。
 「延寿」とか「寿命」(としなが)、「千代鶴」、「宝寿」などまことにめでたい銘の刀があり、本卦(ほんけ)還りの祝儀に有力者に贈られ、「守家」などもその名から家運を守る刀として武将らに珍重され、「波平行安」は水軍の長によって愛用された。将軍世嗣の慶事には吉例の贈り物として、「国光」とか「吉光」などと縁起の良い名刀を献上するのが諸大名の慣わしであり、故実となっていたようでもある。
 また、徳川三百諸侯には大名としての格式から、「正宗」や「吉光」が必須のものであり、さかのぼって、公家、殊に五摂家では「宗近」が伝家の宝刀として家格上欠くことのできない不文律であった。
 ところが実際には、これらの名刀、「宗近」や「正宗」、「国光」や「吉光」が、そうざらにあるわけがなく、従って、無銘や偽銘を承知の上で間に合わせた例も多くあった筈で、そういう意味からしても本阿弥家の折紙や極めは、想像以上に重宝がられたと思われる。
 文化財保護法で指定され、国外持ち出しを制約されている刀剣は、わずかに二千口にも満たない。かって東州斉写楽の役者絵が国外で高く評価されたように、日本刀も欧米でその文化性や芸術的真価を評価されている。
 文化庁が指定し、國が保護する文化財や、過去の重要美術品認定とは別に、各県独自の文化財指定品もある。 終戦後、連合国軍に提出したまま未帰還、あるいは所在不明の重要文化財指定刀剣等が二十口余もあるのは刀剣文化史上、まことに残念至極であるが、近頃、まれに善意の篤志家や日本文化に理解のある一部外国人によって、日本に返還されている事実は、よろこばしい限りである。
 日本刀鑑定には分類上、五ヶ伝と称する五つの正系主流があり、それ以外の伝系を通常、傍物とか郷土刀と呼称して、やや見下げる風潮がなくもない。郷土刀にも優れた鍛冶や名作が多く、また、いわゆる掘出物の宝庫でもある。



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7.讃岐の刀剣

 讃岐は地域的文化的には中央政庁から海をはさんだ島国であり、歴史的にも大戦火の洗礼が少ない比較的平和な土地柄であり、近くに大刀剣生産地の備前を控えていたせいか古来著名な刀工を見ない。刀工名鑑にも記載があり、作品も残っている確かな刀工は、五指にも満たない。
 古くは室町時代に、「讃州志度庄住、藤原秀延作」があり(光山押形所載)、一派も二〜三いたようだが、遺作を見たことがない。
 江戸期に降って新刀不作時代が続いたが、他国鍛冶の讃岐駐槌が何例か見られる。「於讃州石清尾八幡宮、以護摩法水作之、承応六年十一月日、棗(なつめ)加賀守藤原包高」の作品が現存し、県文指定を受けているが、この包高は寛永頃の鍛冶である。
 新々刀時代には、「讃州臣盈永」がおり、讃岐高松住、真部久左衛門同人で、寛政・享和頃の刀工。大阪で名高い尾崎助隆の門に学び、子や一族の盈尊・盈某なども僅かに作刀している。
 彼の作品は、師助隆に似て華やかな相州伝風が多く、薙刀などの作例もあり、新々刀中作にランクされ、讃岐の代表刀工として立派なものである。
 「龍藩軒多田鷹成」も文化頃の人で、一派には、「鷹某」などがあるが、作品は殆ど見ない。前記「鷹成」には県文指定の大振りな作品が代表作として現存する。
 一風変わって面白い物としては、その名からして恐らくは、さむらい鍛冶と思われる「早勝美濃介」銘の遺作などもある。これは刀身一面に見事な彫りのある大脇指で、同工は京極家の武士であったらしい。
 日の目も見ずに草深く埋もれたままの郷土刀が、心ある愛好者によって発見され、愛蔵されることを心から願ってやまないものである。


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