猪苗代湖(歴史)概要: 猪苗代湖は南北14キロメートル、東西10キロメートル、湖面面積103.9kuの日本で4番目(琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖の次ぎ)に広い湖で、会津若松市、郡山市、猪苗代町に囲まれています。
猪苗代湖の湖面は高514m、最大深度93.5mをほこり福島県第一の湖です。猪苗代湖の誕生伝説には弘法大師空海が関わるなど信仰の対象になっていて、湖面利用した交通や物資の流通にも利用されました。
又、江戸時代には猪苗代湖の北側には二本松街道、南側には白河街道が開削され、特に白河街道は会津藩や村上藩、新発田藩の参勤交代の経路として利用された為、湖畔の宿場町は重要視されました。
実際には第三紀末から第四紀初めの地殻変動によるものとされ約9万年前と5万年前の磐梯山火山の火砕流や泥流で河川が堰き止められたことで現在の猪苗代湖を形成したと言われています。
又、猪苗代湖は鬼沼、湖食洞、立石などの自然景観があり日本百景に選定されるなど観光地としても有名で、湖面が鏡のように美しい事から「天鏡湖」の別名があります。周囲には猪苗代湖の景観に感銘した皇族の別邸(旧高松宮翁島別邸、天鏡閣)などもあります。
猪苗代町概要: 猪苗代町の歴史は古く町内に点在する林口遺跡や登戸遺跡など旧石器時代や縄文時代の遺跡があることから当時から人々の営みが行われていたことがわかります。
鎌倉時代に入ると佐原氏(後、芦名氏)が会津4郡の領主となり猪苗代町周辺は大炊介経連(後、猪苗代氏)が配され、亀ヶ城(猪苗代城)を居城としました。猪苗代氏の支配は14代まで続きますが天正17年(1589)「摺上原の戦い」で芦名氏が伊達勢に敗退したことによりで終わりを告げます。
戦国末期から江戸時代初期までは、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏など次々と領主が交代し寛永20年(1643)に保科正之(後、松平氏)が会津藩主に任命されると明治維新まで、保科、松平家が代々藩主となります。
猪苗代町は鶴ヶ城(会津若松城)と奥州街道の本宮宿を結ぶ二本松街道の宿場町だけでなく初代藩主正之を祀った土津神社があり、軍事上、政治上で重要視されました。
その為一国一城令が出されて以降も亀ヶ城(猪苗代城)は城として認められ周囲からの中心的な町として発展しました。戊辰戦争では会津藩の戦略的拠点の1つとなりましたが新政府軍に攻め込まれ城代が城を焼き払って鶴ヶ城(会津若松城)へ撤退しています。
又、猪苗代町は野口英世博士が生まれた町としても知られ、生家は資料館に移築保存されています。
磐梯町概要: 磐梯町は古くから磐梯山の山岳信仰と結び付きが強い地域です。大同2年(807)に名僧徳一大師によって慧日寺(恵日寺)が開山すると会津地方に大きな影響力をもつようになりました。
磐梯山の山岳信仰とも習合した事などから平安時代後期には寺領18万石、寺僧300人、僧兵3000人、子院3800坊という大寺院へ発展していきました。会津の高野山と呼ばれ新潟県東部まで信仰が広がったといいます。しかし、養和元年(1181)に木曾義仲に敗れるなど源平の戦いに巻き込まれ次第に衰退していきます。
鎌倉時代になると佐原氏(後、芦名氏)が会津4郡の領主となり磐梯町を含む会津一帯を支配し戦国時代後期まで代々領しが天正17年(1589)の摺上原の戦いで芦名氏は伊達氏に敗北し、慧日寺も兵火を受け、堂塔伽藍のほとんどが焼失しました。
寛永20年(1643)に保科正之(後、松平氏)が会津藩主に任命されると慧日寺は保護されますが明治時代初頭に発令された神仏分離令によって廃寺となり大正時代に入って再び再興しています。磐梯町の中心街は慧日寺(恵日寺)の門前町の意味合い濃く現在に至っています。
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
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