飯坂温泉(歴史)概要: 飯坂温泉の歴史は古く、伝説によると日本武尊が東国平定の命が下り東夷東征を行い当地まで進軍した際、病に罹り動けなくなりましたが"佐波子湯"に浸かった所、不思議な事にたちまち元気になり平癒したと伝えられています。
ただし、「佐波子」という地名が尊の時代からあったのかは不詳で、一般的に知られるようになるのは平安時代後期の寛弘3年(1006)頃に成立した第三番目の勅撰和歌集である拾遺和歌集に記された西行法師の「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」の「さばこ」が記録上の初見とされ、西行法師が「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と歌を詠んだ事が遠因となり飯坂温泉は古くから「さばこ」と呼ばれるようになったそうです。
しかし、調べてみると、この歌はの作者は不明で所謂「よみ人しらず」とされ、上記の西行法師の他、日本武尊や法燈国師が候補者として挙がっています。さらに、「さばこ」も飯坂温泉の他に、三函の湯(さはこのゆ)と呼ばれたいわき湯本温泉や沢子ノ御湯と呼ばれた鳴子温泉(宮城県大崎市)など諸説あるらしい。
そう言う意味でも、具体的な歌枕の地「さばこ」を当地と印象付ける為に日本武尊の伝説を流布させた可能性があり、いわき湯本温泉の鎮守である温泉神社にも尊の伝説が伝えられています。一方、鳴子温泉は平安時代に成立した「続日本後紀」にその発生の様子が詳細に記載されてる事から、大きく「さばこ」を主張していません。
又、西行法師は「陸奥の さはこの御湯に 仮寝して 明日は勿来の関を越えてん」という歌も残しており、「勿来の関」は一般的に常陸国(茨城県)と陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県の鹿角地方)の太平洋側の関所と推定されている事から、一番近いのはいわき湯本温泉となります。
しかし、上記の歌の出典がどこのものか確認出来なかった為に良く判りません。いわき湯本温泉に誘導する為に後世造られたものかも知れません(私が勉強不足かも知れません)。
飯坂温泉は歴代領主からも利用され、延暦20年(801)には坂上田村麻呂が東威東征の連戦で疲れ果てた家臣達を癒す為に波来湯が開湯され入湯したと伝えられています。鎌倉時代初期に統治していた佐藤基治は「湯の庄司」と称されていました。中世以降は伊達氏の一族である飯坂氏が支配し、戦国時代末期には飯坂宗康の娘が伊達政宗の側室となり三男宗清が跡目を相続するなど伊達家に従属していきます。
奥州仕置き後は上杉氏、堀田氏などが領主となっています。元禄2年には"奥の細道"の行脚で松尾芭蕉が飯坂温泉に訪れていて当時は鯖湖湯など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と比較的小さな温泉街だったそうです。
曾良は「さばこのゆ」をいわき湯本温泉説と鳴子温泉説を述べる一方、飯坂温泉については言及せず、松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の際、実際に飯坂温泉に入湯した際も何も言及していません。その後は紀行文で飯坂温泉を紹介されたり街道の整備などが進み多くの人達が訪れ鳴子・秋保温泉とともに奥州3名湯と呼ばれるようになりました。
現在の鯖湖の湯前には文化13年(1816)に制作された石碑が建立されており、案内板によると「この地の人が鯖湖はここであるということを松平定信がきいて古歌を書かれたので臣の廣瀬典がこれを碑にきざんで建てた。」とあります。
これから察すると江戸時代後期に松平定信が当地を訪れた際、「鯖湖」と「さばこ」の音が似ている事から古歌を書き、それが定着したと考える方が妥当と考えられます。現在の飯坂温泉は摺上川の両側を大型のホテルや旅館が建ち並び独特な町並みが続く温泉歓楽街になっています。飯坂温泉の共同温泉は鯖湖湯、十綱湯、仙気の湯、切湯、導専の湯、大門の湯、八幡の湯、天王寺穴原湯の8軒が残っていて低料金で利用できます。
飯坂温泉泉質: 透明、無味無臭の単純温泉
飯坂温泉効能: 神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・うちみ・くじき・慢性消化器病冷え症・病後回復期・疲労回復・健康増進
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