平川市(歴史)概要: 平川市は古くから穀倉地として知られ、仁徳天皇55年(367)には上毛野君田道命がこの地を訪れ東夷東征をおこなったと言われています。上毛野君田道命が死去すると丁重に葬られ猿賀神社として祀られ歴代領主に崇敬されました。
鎌倉時代に入ると曾我氏が地頭として支配し大光寺城を築くなど領土経営を行います。
正慶2年(1333)鎌倉幕府が滅ぶと北条一族の安達高景と名越時如が曾我氏を頼り身を寄せたため周辺領主との騒乱に巻き込まれました。南北朝時代に入ると曾我氏は北朝側の武将として南朝側の根城南部氏と交戦状態となり次第に衰退していきました(根城南部氏に滅ばされたとも同化したとも言われています)。
その後、安東氏の一族が大光寺氏を名乗りこの地を支配し永享年間(1429〜1441年)に南部守行に攻められと南部氏の支配下に入りました。天正3年(1575)、主家である南部氏を裏切った大浦為信が津軽地方統一に動き平川市一帯も次第に侵攻され、為信が小田原の役で豊臣秀吉に謁見したことで南部家からの独立が確立しました。
江戸時代に入ると弘前藩(藩庁:弘前城)に属し平川市では藩内の大動脈である羽州街道が開削整備されました。
特に碇ヶ関御関所は敵対する南部藩との藩境に近かった事もあり領内3箇所(大間越、野内、碇ヶ関)に設けられた関所の中でも最も重要視されました。碇ヶ関御関所は宿場町を取り込み要塞化したとされ江戸時代中期に訪れた古川古松軒は東遊雑記に「武器を飾り厳重なること中々箱根の御番所などの及ぶことにあらず」と記していた程です。
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