七ヶ宿町(歴史)概要: 七ヶ宿町の町の由来は江戸時代、羽州街道と奥州街道を繋ぐ道に「上戸沢」、「下戸沢」、「渡瀬」、「関」、「滑津」、「峠田」、「湯原」の七つの宿場があった事から、この街道を「七ヶ宿街道」と称されていました。
戦国時代末期には上杉領だった白石城と会津若松城を繋、伊達家も元々米沢が本拠地だった事もあり、七ヶ宿町は軍事的要所として捉えられてきた要素が強いと言えます。
江戸時代に入って寛永12年(1635)になると参勤交代制度が確立し、各諸藩は自分の領地と江戸との二重生活を余儀なくされ、移動する街道や宿場も一段と整備される事になります。
特に七ヶ宿街道では出羽国の大名13家【佐竹家(秋田藩20.6万石)・酒井家(庄内藩14.7万石)・津軽家(弘前藩10万石)・酒井家(松山藩2.5万石)六郷家(本荘藩2万石)・水野家(山形藩6万石)・織田家(天童藩2万石)・戸沢家(新庄藩6.8万石)・岩城家(亀田藩2万石)・松平家(上山藩3万石)・津軽家(黒石1万石)・米津家(長瀞藩1.1万石)・生駒家(矢島藩1万石)】が参勤交代に使い、それ以外でも天領の代官や大名家の家族、家臣など様々な人達の往来する事になりました。
又、経済活動も活発化し太平洋側と日本海側を繋ぎ、江戸廻米などの物資が行き交うようにもなりました。その為、七ヶ宿町では軍事的要素の強かった二井宿峠から利便性と経済性が高い金山峠を開き、本陣を関宿に設置し、藩境に隣接していた上戸沢と湯原に御番所が置き足軽を配置するなどの整備を行いました。
当時の七ヶ宿町に住んでいるほとんどの人達が街道と関係の深い仕事を従事していた為、明治時代に東北本線と奥羽本線と鉄道が整備されると次第にその重要性も薄れていってしまいました。 現在の七ヶ宿町では、街道の謂れのある史跡や脇本陣である安藤家などが残っています。
七ヶ宿町・歴史・観光・見所の動画の再生リスト
|