亘理町(歴史)概要: 亘理町は阿武隈川の河口付近に位置する交通の要所として捉えられてきました。古代には亘理町の北西部に陸奥国亘理郡衙(三十三間堂官衙遺跡)が設置され亘理郡の中心として機能し、康保4年(967)に施行された延喜式の式内社に鹿嶋天足和気神社、鹿島伊都乃比気神社、鹿嶋緒名太神社、阿福麻河伯神社の4社が指定されるなど文化的(宗教的)にも地域に影響を及ぼしていたと考えられます。
中世の亘理町一帯は亘理氏が支配し、現在の大雄寺付近に小堤城を築きます。戦国末期になると、亘理氏は伊達氏に従属するようになり、豊臣秀吉の奥州仕置きにより天正19年(1591年)に伊達政宗が米沢から岩出山に移ると、それに伴い亘理氏も涌谷へ移されます。
亘理町は相馬領が近接し阿武隈川の河口にある要地だった事で重臣である片倉小十郎景綱が預り、関ヶ原の戦い後、景綱が白石城へ入ると、一族である伊達成実が慶長7年(1602)から亘理城へ入ります。
成実は城の改修と共に城下町の町割りや新田開発、治水工事などを積極的に行い、現在の亘理町の基礎を築き、以後明治維新まで亘理伊達家が亘理郡と相馬郡の一部を治めました。
現在の亘理町は武家屋敷などの遺構は見当たりませんでしたが、奥州街道を岩沼から分岐し水戸まで続く陸前浜街道沿いには多くの町屋が並び、特に永田醸造の店蔵は規模も大きく保存状態も良い事から国登録有形文化財に指定されています。
又、亘理伊達家の菩提寺である大雄寺にある成実の御霊屋は江戸時代初期に建てられた霊廟建築として貴重な存在として宮城県指定有形文化財に指定されています。
亘理町・歴史・観光・見所の動画の再生リスト
|