涌谷町・歴史・観光・見所

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概要・歴史・観光・見所

涌谷町(歴史)概要: 涌谷町は遠田郡の東端に位置し、箟岳山を中心に迫川や江合川がそれを囲む自然豊かな肥沃的な土地です。その為、涌谷町は古くから人々が暮すのに適した場所柄で縄文時代前期〜中期の大規模な縄文集落である長根貝塚が発見され国指定史跡となっています。同様に中沢目貝塚などからも淡水産の貝殻で構成されている貝塚の為、当時の涌谷町の生活形態だけでなく地理学的にも貴重な存在となっています。

涌谷町が記録として現れるのは天平21年(749)に日本で初めて金を採掘し東大寺大仏の建造に金900両を献上したことで黄金山産金遺跡としてこれも国指定史跡となっています。又、史跡内にある黄金山神社は延喜式神名帳に記載されている式内社で、古来から宗教的、文化的にも周囲の中心となしてきたことがわかります。

この事から涌谷町には奈良時代から平安時代にかけて追戸横穴墓群、中野横穴群、龍淵寺横穴群などおびただしい横穴古墳が見つかり様々な副葬品も発掘されています。これは大豪族ではないにしろ、当時の涌谷町が朝廷の影響力の中にあり様々な交流があった事をしめしています。

中世に入ると涌谷町の象徴的存在の箟岳山山頂付近にある箟峯寺の影響力が増してきます。創建は大同2年(807)に坂上田村麻呂が開いたとされますが、中世には周辺を支配した葛西氏、大崎氏などの庇護もあり山岳信仰の拠点の1つとして奥州三観音の1つとしても数えられるようになりました。

近世に入ると涌谷町は地理的に周囲の中心で交通の要所である事から仙台藩でも重要視され、涌谷城には一族の涌谷伊達氏が2万3千石で入ります。この石高は仙台藩の中でも最上級の高禄で、家臣でありながら大名クラスの格式を持っていたと言えます。

涌谷伊達氏は現在の涌谷町の基礎となる城下町町並み整備を積極的に行い、城郭を中心に手前を武家町とし江合川対岸を商人町としました。

涌谷城下には石巻別街道と佐沼街道が交差する交通の要所として経済的にも発展し、新町、本町、川原町には多くの町屋が軒を連ねました。

又、菩提所の見龍寺光明院妙見宮といった涌谷伊達氏の縁の寺院を元の領地だった亘理から移しています。

特に見龍寺は代々領主の霊屋が現存し四代伊達安芸宗重公霊屋は宮城県指定有形文化財(他は涌谷町指定)となっています。

四代伊達安芸宗重公は世に言う伊達騒動(寛文事件)の際仙台藩を救おうとした人物で領内にも良政を行った名君とされましたが、原田甲斐によって惨殺され現在は涌谷城境内の涌谷神社に祀られています。明治維新後は涌谷町が中心的存在だった事もあり一時涌谷県の県庁が置かれましたが、程なく宮城県に編入されました。

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涌谷町・町並み: 旧商人町
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