棚倉町(歴史)概要: 棚倉町には奥州一ノ宮を称する馬場都々古別神社と八槻都々古別神社の2社があり、両社とも日本武尊や坂上田村麻呂が関与し延喜式神名帳に記載されている式内社です。これらの事から棚倉町一帯は古来は中央との繋がりが強く重要視されていた地域だと考えられます。
中世は白川城を本拠とする白河岩城氏の影響下にあり棚倉町にある赤館には赤舘源七郎が入り周辺を統治していました。
戦国末期になると南方の佐竹氏と北方の伊達氏の勢力が強大となり南奥羽一帯を支配した白河岩城氏はほとんど形骸化し両氏の代理戦争に近いものとなりました。天正3年(1575)に佐竹氏は赤館を攻略し一族である東義久が城代として配し、その間馬場都々古別神社の社殿の造営などを行い棚倉町周辺の支配が確立していきます。しかし、関が原の合戦の折豊臣方に縁が深かった佐竹氏は東西中立だった為、秋田へ減封となりました。
江戸時代に入り寛永元年(1624)に丹羽氏が5万石で入ると、赤館を廃城として新たに棚倉城を築城して現在の棚倉町の祖となる城下町の建設を積極的に行います。棚倉城は平城だった為、町割りには枡形を設けるなど工夫が随所に見られ現在でもその名残が見られます。
丹羽氏が白河へ移封されると内藤氏(7万石)、太田氏(5万石)、松平氏(6.5万石)、小笠原氏(6.5万石)、井上氏(6万石)、松平氏(6万石)、阿部氏(10万石)と短期間の間で譜代大名が次々と替わり、一定の藩風が生まれ難い土地柄だったと言えます。
戊辰戦争時には白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加し、慶応4年6月24日板垣退助の率いる官軍800名に取り囲まれてわずか一日で棚倉城は落城したそうです。
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