須賀川市(歴史)概要: 須賀川市の歴史は古く陸奥国から分離した石背国の国府が上人壇廃寺跡付近に置かれたと推定されています。
石背国には白河郡、石背郡、会津郡、安積郡、信夫郡が置かれたとの記述から須賀川市一帯が現在の中通りと会津地方の中心的役割を持っていて、中央との関わりが特に強かったと考えられます。
陸奥国府である多賀城(宮城県多賀城市)を結ぶ街道である東山道も整備され須賀川市は磐瀬と呼ばれる駅(馬を乗り継ぐ宿場)として延喜式にも記載されています。
鎌倉時代に入る須賀川市一帯は二階堂氏が支配し、文政5年(1448)にはもう一系統の二階堂氏が領内を統一します。その後、須賀川城を築城し寺院を集めるなど現在の須賀川市の祖となる城下町の建設に力を注ぎます。
戦国時代になると石高も5万7千石なるなど勢力を保っていましたが南方の佐竹氏と北方の伊達氏に挟まれる形となり家臣団もそれぞれの派閥が出来対立し天正17年(1589)、伊達政宗の攻撃を受けて須賀川城は落城しました。
その後伊達氏の陪臣となった石川氏が入りますが天正18年(1590)、奥州仕置きにより改易、蒲生氏、上杉氏と短期間で領主が交代し加藤氏の時代に最期に廃城となりました。須賀川市は会津若松や浜通りに抜ける交通の要所だった事もあり江戸時代に入ると奥州街道が整備されると宿場町として大きく発展し、古町村、中町村、道場町村、北町の4町で形成され本陣など多くの建物も建てられました。
松尾芭蕉もこの地に8日間も滞在するなど異例なほど気に入ったようです。戊辰戦争では戦火にさらされ多くの建物が焼失しています。現在の須賀川市の町並みも道路の拡幅や近代化などの当時の様子はかなり失われているようです。
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