弘前城・歴史・縄張り: 弘前城は初代藩主津軽為信が慶長8年(1603)に築城を開始し慶長9年(1604)に為信が京都で死去したことで一端中止になりますが慶長14年(1609)に再び工事が再開され、2代信枚の代である慶長16年(1611)に梯郭式平山城として一応の完成を見ました。弘前城の築城当時は東西618m、南北956m、総面積約49.2ha、本丸を中心に二の丸、三の丸、四の郭、北の郭、西の郭の6つの郭から構成されていました。弘前城の本丸から見ると3重の堀で城を囲い、本丸は東北地方では珍しい高石垣を積みその他は土塁を築き、弘前は雪国ということもあり天守閣の屋根は銅瓦を用い、現存する3基の3層櫓に至っては板葺きを採用しています。弘前城の本丸には5層の天守閣(寛永4年の落雷で焼失し、文化8年(1811)に3層の辰巳櫓を改修し現在の天守閣が築かれました。※幕府には御3階櫓と申請していますが事実上天守閣とされています。
一説によると追手門から本丸に入る際には破風など意匠に富、天守閣に見ますが、幕府からの役人が弘前城を視察に来た場合には籠に乗せ態々反対側から入城させたとされ、本丸からは3重櫓に見えるように意匠を廃した簡素な造りにしたとされます。)が建てられ、弘前藩立藩当時4万7千石の外様大名としては異例とも言える規模と格式を備えた城でした。城下町の計画としては弘前城から見ると南西に方角に配された長勝寺の門前には禅林三十三ヶ寺が集められ、禅林街と呼ばれる寺町を形成し出城的な役割を持たせるために周囲に土塁と濠を廻し「長勝寺構え」とされました。南方の守りとして新寺町を町割りし、ここでも津軽家の菩提寺である報恩寺や大円寺(明治時代の神仏分離令後に大鰐温泉に移転)など有力な寺院が集められ「新寺町構え」とし、西方の守りには誓願寺、革秀寺に広大な境内を与える事で押えとしています。弘前藩は本州最北の藩として幕府から重要視され信枚の正室には家康の養女だった満天姫(松平康元の娘、元は福島正之の正室)を迎え、逸早く東照宮を創建するなど親藩化していったと思われます。
弘前城・五行陰陽: 五行陰陽とは中国で生まれた陰陽思想と五行思想が合わさって発生した思想のことで、弘前城は軍事防衛と同時に占いや霊的観点からも重要視され、築城には兵法家で陰陽道・易学・天文学に通じ津軽家の軍師を担った沼田面松斎が大きく関わったとされます。その為、弘前城が築城されると同時に城下町も計画され、風水、五行思想の観点から鬼門(北東方向:鬼が侵入する方角で、災いをもたらすとされる)封じには弘前八幡宮(大浦城時代にも鬼門鎮守でしたが築城された際現在地に遷座されました。)と別当である最勝院(明治維新後に旧大円寺境内に移っています。)が配され、南西の方角で裏鬼門(鬼門とは対の関係で鬼門と同様、忌み嫌われる方角)に当る場所には津軽家の菩提寺長勝寺(曹洞宗)が配されています。
弘前城・四神相応: 四神相応とは中国の影響が強い東アジアで根強く考えられてる都市を計画する時に用いる思想で、大地(都市)には四方の方角を司る「四神:玄武・朱雀・青龍・白虎」が存在し、それぞれの神が住み易く適した地形を有していれば永久的に大地(都市)が神により守護され潤う(発展する)とされます。弘前城は四神相応の観点から北方の玄武が住む山を梵珠山(標高468m)に見立て、北側の門を亀甲門、橋を亀甲橋、町を亀甲町としています。西方の白虎が通る大道として西浜街道(大間越街道)を開削し、江戸時代初期は津軽家の参勤交代の道として利用し(その後の参勤交代は羽州街道)、城下の街道沿いには初代藩主津軽為信の菩提寺である革秀寺を配し、蓮池を造営する事で西方浄土を演出しています(宗派的には曹洞宗で本尊は釈迦牟尼仏:釈迦如来)。又、弘前の地は城下町であると同時に宿場町でもあり、街道を利用して円空や古川古松軒、菅江真澄、伊能忠敬、吉田松陰など数多くの歴史上の人物が訪れています。
さらに弘前城西方にある岩木山神社(旧別当:百沢寺)には虎の彫刻が施され白虎を印象付ける意匠が採用されています。弘前城東方の青龍の住処となる清流を土淵川に見立て「東」を象徴する弘前東照宮(別当寺院:薬王院)を勧請、その延長には平川が流れており、そこに鎮座する猿賀神社の祭神深沙大将は青蛇(龍)を掴んでいる姿をしています。弘前城の築城当時に唯一足りなかったのが南方の朱雀が宿るという水辺(湖・沼・池)だった事から2代藩主津軽信枚は慶長17年(1612)から慶長19年(1614)の間に土淵川と寺沢川の合流地点の内側に堤防を築き人口の南溜池を設け対応させました。
弘前城・遺構: 弘前城は明治4年(1871)の廃藩置県後に廃城となりましたが弘前藩は新政府側についたためか城郭の建物は数多く残され、天守閣を始め辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟の3層櫓、追手門・東門・南内門・東内門・北門(亀甲門)の5棟の櫓門が現存しそれぞれ国指定重要文化財に指定されています(明治39年:1906年の火災により子の櫓と未申櫓は火災により焼失)。城跡は現在弘前公園として整備され、特に桜の名所として知られ平成2年(1990)に日本さくら名所100選に選定されています。
旧城内全域と城の総構えで防衛施設の1つと見られた長勝寺構(禅林街)、新寺構が昭和27年(1952)に国指定史跡に指定され、その後、昭和60年(1985)に堀越城跡(青森県弘前市堀越)が追加指定された事を受けて名称が「津軽氏城跡 堀越城跡 弘前城跡」に改称、さらに平成14年(2002)に種里城跡(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)が追加指定された事で名称が「津軽氏城跡(種里城跡・堀越城跡・弘前城跡)」に改称され、指定面積は約105万8千uに及んでいます。平成18年(2006)には財団法人日本城郭協会による日本100名城の1つに選定されています(歴史的な重要性や文化財的な価値、知名度などが選定基準)。現在は弘前公園として整備されており日本三大桜名所に数えられています。
弘前城の文化財
・ 天守閣−文化7年−三層三階、桁行6間、梁間6間、塗屋造−国指定重要文化財
・ 丑寅櫓−慶長15年−三層三階、桁行4間、梁間4間、塗屋造−国指定重要文化財
・ 羊申櫓−慶長15年−三層三階、桁行4間、梁間4間、塗屋造−国指定重要文化財
・ 辰巳櫓−慶長15年−三層三階、桁行4間、梁間4間、塗屋造−国指定重要文化財
・ 追手門−慶長15年−櫓門、入母屋、本瓦葺、軒高11.7m−国指定重要文化財
・ 北門−桃山時代−櫓門、大光寺城からの移築城門、亀甲門−国指定重要文化財
・ 東門−慶長15年−櫓門、入母屋、本瓦葺(鯱付き)−国指定重要文化財
・ 東内門−慶長15年−櫓門、入母屋、本瓦葺(鯱付き)−国指定重要文化財
・ 南内門−慶長15年−櫓門、入母屋、本瓦葺(鯱付き)−国指定重要文化財
・ 弘前城−名称「津軽氏城跡(種里城跡・堀越城跡・弘前城跡)」−国指定史跡
弘前城の歴代城主
・ 津軽信牧−2代藩主−1611〜1631年−弘前城、城下町の整備、藩政の確立
・ 津軽信義−3代藩主−1631〜1655年-御家騒動(船橋騒動/正保の騒動)
・ 津軽信政−4代藩主−1655〜1710年−名君として弘前藩の全盛期を築いた
・ 津軽信寿−5代藩主−1710〜1731年−4万6千石、高照神社創建、財政悪化
・ 津軽信著−6代藩主−1731〜1744年−天災や弘前城下の大火、藩政改革
・ 津軽信寧−7代藩主−1744〜1784年−天明の大飢饉により領内荒廃
・ 津軽信明−8代藩主−1784〜1791年−名君として藩政改革を断行、財政再建
・ 津軽寧親−9代藩主−1791〜1820年−蝦夷地の警備、7万石から10万石
・ 津軽信順−10代藩主−1820〜1839年−相馬大作事件、財政悪化
・ 津軽順承−11代藩主−1839〜1859年−名君として新田開発や学問奨励
・ 津軽承昭−12代藩主−1859〜1869年−戊辰戦争では中立、函館戦争で功
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