長野県・長和町(長久保宿・和田宿)

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【 概 要 】−古くは芦田氏が支配していた地域でしたが、室町時代に入ると佐久地方に大きな影響力を持った大井氏の支配下に入り長和町内には長窪城や和田城が築かれ城下町が整備されました。天文12年(1543)に武田氏の所有となり、特に長窪城は東・北信濃侵攻への軍事的拠点として重要視され、天文17年(1548)の上田原の戦いや天文19年(1550)の「砥石崩れ」などで武田信玄が利用しています。江戸時代に入り中山道が開削されると長和町には長久保宿と和田宿が開かれ長久保宿は背後に笠取峠を控え上田城の城下を経由し善光寺へ向う街道との追分でもあった為、旅人や参拝客などで栄え、和田宿は中山道最大難所といわれる和田峠を控えていた為、参勤交代で利用する大名が宿泊で利用し最盛期には70軒の伝馬役があったと言われています。長久保宿の本陣職を代々担った石合家は真田幸村(信繁)の長女の嫁ぎ先と知られ、家宝として幸村直筆の手紙が伝えられ、幸村の父親としての一面が窺える資料となっています。和田宿の本陣は江戸時代末期の建築で、皇女和宮が宿泊所として利用した事で知られ、中山道に残る数少ない本陣建築の遺構として貴重な事から国指定史跡に指定されています。両宿とも明治時代に入り宿場制度が廃止となり衰退しましたが現在でも長久保宿には松尾神社、長安寺、長久保宿本陣、長久保宿問屋、竹内家住宅、一福処濱屋、和田宿には和田宿本陣、和田宿脇本陣、かわちや、信定寺、八幡神社などが点在し当時の宿場町の様子を今に伝えています。
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