長野県・東御市・海野宿

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【 概 要 】−北国街道が開削された寛永2年(1625)当時は海野宿(長野県東御市)と田中宿は合宿でしたが寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大被害を受けると本陣が海野宿のみとなり本宿となりました。海野宿には本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ参勤交代で宿泊や休息で利用する大名や善光寺詣での参拝客、佐渡金山で採掘された金や鉱物の輸送などで大変賑わい伝馬屋敷59軒、旅籠23軒を数えたそうです。延享3年(1746)に編纂された「海野宿屋敷割図」には総延長約6町(約650m)宿場の東西に枡形、中央に水路が設けられ両側には103軒の家屋が軒を連ねていたとされ25頭の馬が物資や書簡などの物流を支えていました。明治時代に入ると宿場制度が廃止され、新たに鉄道が敷かれると海野宿にある本陣や脇本陣、旅籠などの旅館業が急速に衰退し、変わって養蚕業が発達します。現在見られる海野宿の町並みの中にも元々旅籠(当時の宿泊は相部屋が主流だった為、旅籠の2階は大きな部屋を作り易く養蚕に適していたと考えられます。)だった建物を改築し養蚕場とし屋根上部に「気抜き」と呼ばれる煙出しの小屋根を揚げている様子が随所に見られます。養蚕業は大きな富をもたらし、海野宿の町並みの特色の1つでもある「袖うだつ」を上げる家が増え現在見られるような家並みに形成していきました。海野宿は現在も北国街道宿場町の古い町並みが残り昭和61年に"日本の道100選"に選定され、昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

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